シュレディンガーの犯罪

あなたは量子力学というものをご存知だろうか。もしこの言葉に聞き馴染みが無かったとしても、量子力学における有名な思考実験である「シュレディンガーの猫」なら、きっと多くの人が知っていることだろう。

端的に説明すると、「シュレディンガーの猫」とは、一定確率で毒ガスが出る装置と猫を箱の中に入れ、猫がその装置のスイッチを押したなら、誰かが観測するまで、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている状態にある、というものである。元々は、シュレディンガー量子力学を批判するために唱えたものであるが、この思考実験は量子力学の性質を端的に表している。つまり、電子などのミクロな物質について、その情報は完全に突き止めることが出来ず、あくまで全ての事象が確率で重なり合っているとしか言えないということである。(実際には「ハイゼンベルグ不確定性原理」という原理により、私たちには箱を完全に開けることすら出来ない。)

これは思考実験、すなわち頭の中での実験であるから、実際には行われていないのだが、もし本当に行われていたら動物愛護団体から抗議を喰らいそうな内容である。

 

ところで、話は変わるが、猫を殺すことは本当に悪だろうか?

 

おそらくこのような質問をすると、多くの人は「悪である」と答えるだろう。人を殺すことについても同様だと思う。しかし、それは絶対的な悪ではない。法を基準とした相対的な悪である。「いや、法で禁止されていなくても道徳的に悪だろう」と主張する人もいるかもしれない。しかし、道徳やモラル、マナーというものも、人間が社会的に生きていく上で相互の不和を最小限に抑え、より生活を円滑にするための基準の一つであるから、絶対的なものではない。元々道徳があったのではなく、人間が道徳を作ったのである。よって、これも相対的な悪に過ぎない。

そもそも人間が人間でいる限り、その視点には絶対に人間としての固定観念が混ざる。我々がいくら努力しようとも、先入観は完全に取り除くことが出来ないから、何か一つの(例えば善悪のような)概念的で抽象的な事実を、絶対的な真実と断ずることは出来ない。つまり、善悪というものは絶対的なものではなく、常に相対的なものとしてしか存在しえない。と言うよりむしろ、人間にはそうとしか認識できないのである。

 

だから、我々が観測しうるのは「この世の全ての行為は善かもしれないし悪かもしれない。それらの状態は確率で重なり合っているが、我々にはそれがどちらであるかを完璧に断定することは、原理的に不可能である。」という事実のみである。そう、ちょうど量子力学のように。