学生運動からネトウヨへ

昭和の中頃から終わりにかけて、世間では左翼的な運動が多く見られた。連合赤軍によるあさま山荘事件や、中核派による渋谷暴動事件、そして、東大安田講堂事件に代表される安保闘争などである。

 

僕は、このような反政府的な運動には、若者の反骨的な精神が絡んでいると思っている。もちろん、日本に革命と共産主義をもたらすことを本気で夢見て活動している人もいるだろうが、こと大学闘争においては、アイデンティティを求めてもがき苦しむ若者たちの苛立ちの矛先が、「政府」という分かりやすい権力に向いたという側面が大きいだろう。

 

ただ、昨今の若者は昭和後期とは異なり、右派かつ政権支持派が(消極的支持も含め)多いように感じる。ネットの海では、若者によって野党やメディアが叩かれ、反政権的な運動に対しては冷ややかな目が向けられることが多い。これは僕の高校・大学内での実感としてもある。では、日本の若者たちは昭和後期のような反骨精神を失ってしまったのだろうか?僕はそうではないと思う。

 

結論から言うと、若者たちの苛立ちの矛先は、メディアという別の「権力」に向いたのである。今までは、新聞や雑誌、ラジオやテレビといった大手メディアを、一般人は盲目的に信じていた。というより、信じるほかはなかった。それは、第二次世界大戦中、メディアが国民の洗脳に大きな役割を果たしたことからも明らかだろう。しかし、1990年代後半から、急速にインターネットが普及した。インターネットは一種のメディアであるし、また、他のメディアとは違い、誰でも発信者になることが出来る。個々人がメディアを持つことによって、いわゆるオールドメディアがどれだけの力を持っていたのかも浮き彫りになった。その結果、若者たちは、オールドメディアを政府よりも強大な権力とみなしたのである。僕は、これが若者たちの右傾化の理由だと考える。

ガセグルメはどうしてムカつくのか

ガセグルメとは、昨今twitterに蔓延る、簡単美味しいを銘打つレシピツイートの数々の通称である。僕はそのレシピの美味しさがガセであるかどうかについては触れないが、それらのツイートに使われている文法がやけに腹立つので、まとめサイトtwitterの力をお借りして、ムカついた表現を抜き出してみた。

(参考)

https://twitter.com/oraorataro_/status/1011078864661909504?s=21

http://matome.naver.jp/odai/2144696554574153501

 

・全人類に知ってほしい

・ほぼ毎日食ってる

・"賢者のメシ"

・奇跡が起きる

・思わず全員で悲鳴を上げてしまう

・こればっかり食べてる

・最高レシピ

・梨界の革命

・1日3本茄子食べちゃった鬼レシピ

・米が消える

・焼くと外側がパリッと固まって中がプルプルになって、かじるとシャクッと音を立ててほどけて香りがふわっと広がる

・苦味が完全に消えるので、息子がピーマン5~6個分を瞬時に食べた

・ものの見事な米泥棒となりましたので注意喚起のご報告を 米が少ないときは危険なのでやめましょう。ガチめに米が爆速でなくなります

・これかなりウマいんだ

・報告しておきます

・あまりの美味しさに想定の倍は白米消費するからもっと広まれ

・人参嫌いの子供が無限におかわりする悪魔の食べ物が出来るから…。にんじん農家イチオシの食べ方だから…。にんじんがあっという間に数本なくなっていくから…。酒が美味くなりすぎるから…。

・最強の麻薬

・もう戻ってこれない

・まじで濃厚だしめちゃくちゃ美味い。手間かからないし安いし、さすが居酒屋店員さんオススメだけあって秀逸の組み合わせ。まじ天才。

 

これらを見てもらうと、「全人類や梨界(スケールがデカい)、米や野菜が一瞬でなくなる、そればっかり食べてる、などの誇大表現」や「フォロワーへの報告」、「その道のプロのオススメ」、「シンプルに口調がウザい」などの特徴が見て取れるだろう。

 

これを元にしてガセグルメテンプレートを作ると、

「これは<その道のプロ>が教えてくれたんだけど、<レシピ>こと賢者のメシが美味しすぎて、苦味も<食材>も消えたし米も爆速で無くなったことを報告しておきます。初めて作った時は奇跡が起きたし、思わず全員で悲鳴をあげてしまった。最近マジでこればっかり食べてるしこれは<食材>界の革命であり最強の麻薬だから…。全人類にオススメしたいから…。」

といったところだろうか。是非適宜活用してほしい。

シュレディンガーの犯罪

あなたは量子力学というものをご存知だろうか。もしこの言葉に聞き馴染みが無かったとしても、量子力学における有名な思考実験である「シュレディンガーの猫」なら、きっと多くの人が知っていることだろう。

端的に説明すると、「シュレディンガーの猫」とは、一定確率で毒ガスが出る装置と猫を箱の中に入れ、猫がその装置のスイッチを押したなら、誰かが観測するまで、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている状態にある、というものである。元々は、シュレディンガー量子力学を批判するために唱えたものであるが、この思考実験は量子力学の性質を端的に表している。つまり、電子などのミクロな物質について、その情報は完全に突き止めることが出来ず、あくまで全ての事象が確率で重なり合っているとしか言えないということである。(実際には「ハイゼンベルグ不確定性原理」という原理により、私たちには箱を完全に開けることすら出来ない。)

これは思考実験、すなわち頭の中での実験であるから、実際には行われていないのだが、もし本当に行われていたら動物愛護団体から抗議を喰らいそうな内容である。

 

ところで、話は変わるが、猫を殺すことは本当に悪だろうか?

 

おそらくこのような質問をすると、多くの人は「悪である」と答えるだろう。人を殺すことについても同様だと思う。しかし、それは絶対的な悪ではない。法を基準とした相対的な悪である。「いや、法で禁止されていなくても道徳的に悪だろう」と主張する人もいるかもしれない。しかし、道徳やモラル、マナーというものも、人間が社会的に生きていく上で相互の不和を最小限に抑え、より生活を円滑にするための基準の一つであるから、絶対的なものではない。元々道徳があったのではなく、人間が道徳を作ったのである。よって、これも相対的な悪に過ぎない。

そもそも人間が人間でいる限り、その視点には絶対に人間としての固定観念が混ざる。我々がいくら努力しようとも、先入観は完全に取り除くことが出来ないから、何か一つの(例えば善悪のような)概念的で抽象的な事実を、絶対的な真実と断ずることは出来ない。つまり、善悪というものは絶対的なものではなく、常に相対的なものとしてしか存在しえない。と言うよりむしろ、人間にはそうとしか認識できないのである。

 

だから、我々が観測しうるのは「この世の全ての行為は善かもしれないし悪かもしれない。それらの状態は確率で重なり合っているが、我々にはそれがどちらであるかを完璧に断定することは、原理的に不可能である。」という事実のみである。そう、ちょうど量子力学のように。

異性間での友情

異性間での友情は成り立つか、というのはよく問われる命題だが、僕は成り立つと思う。ただし、同性間での友情と異性間での友情は本質的に違う。

 

一言で言えば、身も蓋もないが、異性間の愛情には「性愛」が混じるのである。それは、性愛が自分の中で明らかである場合だけではなく、例え「こいつのことは恋愛対象として見ていない」と思っていたとしても、性愛は潜在的に、確かに存在する。これは不可避なものであると思う。

僕の周りには(僕自身も含めて)、女友達の方が気が合うという男が何人かいる。多分世間的にも一定数いるだろう。これは、本当に気が合うというよりかはむしろ、自分の中に性愛による優しさが(無自覚で)芽生えているためだろうと思う。つまり、異性の友達は同性の友達に比べ、性愛の点でアドバンテージを1獲得しているのである。だから不和も起きにくい。

 

また、異性間の友情には次のステージが存在しうることも大きい。他人からいきなり恋人にステップアップすることなどまず無いから、恋人の可能態は友情しか有り得ない。友情の時点で少なからず性愛を持っているから、一種性的な恋人という関係にステップアップすることが可能なのだと僕は思う。

つまり、「異性だけどお互いのことは友達としてしか見ていない」なんて言説は、単なる綺麗事なのである。

 

("可能態"の使い方間違ってたらごめんなさい。哲学系の人はムカついても大目に見てほしい。)

やりたくない

もしあなたが宗教を信じているなら、ここでブラウザバックしてほしい。

 

僕個人は熱心な無神教信者で、キリスト教から神道に至るまで全ての宗教を好まない。だから、当然輪廻転生についても信じていない。科学的に言えば、死後僕たちの身体を構成する原子は、宇宙にバラバラに拡散すると考えるほかない(もちろん科学は一種の宗教であるという捉え方もあるが)。そう考えると、僕たちの人生は本当の意味で「1回きり」なのである。ならば、どこに自分がやりたくないことをする必要があるだろうか。少なくとも僕の頭の中には、こういった考えが常にある。

 

ところで、ここで言う「やりたくない」とは、何も安直に「受験勉強したくないからやらない」とかそういうことではない。もしあなたが「受験勉強はやりたくないけど受験勉強することによっていい大学に入ってお金持ちになりたい」と考えるなら、やりたくない受験勉強はやってもいい。そのやりたくないことはやりたいことに内包される。「老人を助けるのはめんどくさいけど好きな子が見てるかもしれない」なら助けてもいい。「指は痛くなるけどステージに立ちたい」ならギターを練習してもいい。

 

つまり、最終的に「やりたい」が待っている「やりたくない」ならやってもいい。逆に「◯◯に怒られるからやりたくないけどやる」とかなら辞めてしまった方がいい。それは消極的で受動的な理由だからだ。要するに、大事なのは常に自分の意思である。自分の意思でやりたいことを決める。やりたくないことを決める。やりたくないことは出来るだけ避ける。どれだけ嫌なことを頑張っても、別に徳が貯まって2周目スタートとか無い。だから、僕も自分の意思を大事にして生きていきたいなぁと思う。

 

何か宗教じみた自己啓発感が出てしまったが、神とかいうよく分からないものを持ち込んでいないだけ、まだこの記事の方がマシだと思う。

物理アレルギー

こと勉強の面において、文系は理系にバカにされることが多く、また、文系は理系にある種の尊敬を抱いていることが多い。実際そのような光景は、僕が通っていた高校でも多く見られた。もし全ての文系が、自分の実力よりも自分のやりたいことを勘案して文系に進んでいたのなら、このような事象が多く見られることは無いはずだ。そのため、多くの文系にとって「理数系科目が出来ないため」という理由が、全てとは言わないまでも、文系に進んだ大きな要因の一つとなっていることは確かである。だが、前述の事象から逆に、理系に進んだ者で、そのような消極的理由が大きなウェイトを占めている者は少ないと推測される。では何故、理数系科目は特に"アレルギー"を生みやすいのか。

 

この疑問に対する答えを探すため、昨年度のセンター試験についてのデータを見てみる。通常、国公立大学を志望する文系は、センター試験では理数科目として「数1A、数2B、理科基礎2科目」を受けることが多い(私立文系志望は3教科型がメジャーなのでそもそも理数系を受けないことが多い)。なので、文系特有の理数科目とも言える、理科基礎の受験者数についてのデータを見る。すると「物理基礎:13,289、化学基礎:88,263、生物基礎:116,591、地学基礎:41,617」とある。そう、物理基礎の受験者数は、あのマイナー科目である地学の基礎よりも少ないのである(どれだけ地学がマイナーかというと、受験者数が少なすぎて、他の理科科目に比べて点数が著しく違っても補正が行われないレベル)。反対に、生物基礎の受験者数は、文系の専門である歴史科目のうちのひとつ、世界史Bの受験者数(84,053)を優に超える。ここから分かるように、文系は「物理が苦手で生物が得意」なのである。

 

ここからは僕の考えを述べる。「生物は暗記、物理は思考」とはよく言われることだが、確かに生物は暗記項目が多くとっつきやすい。それに比べて物理は、日本語ではなく数式が非常によく出てくるし、慣性の法則なども摩擦のある現実世界とは乖離しているように見えるので、とっつきにくい学問かもしれない。だが、僕の言いたいことはそこではない。文系は本当に物理が分からないのだろうか?もしかして文系の人は、何となく周りに流されて、物理が分からない気になっていないだろうか?ろくに勉強もしていないのに、皆出来ないし私が出来ないのも当たり前だと思っていないだろうか?数式が出てきた途端に脳をシャットダウンし、意味を理解しようともしていないのではないだろうか?てか物理分からない自分ちょっと可愛いと思ってない?

センター試験を物理で受けた身としては、センター物理基礎は決して難しくないし、盲目的に嫌うのは非常にもったいないと思う。食わず嫌いせずにやってみてほしい。